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zoom RSS 「大航海時代の日本:日欧文化交流の歴史(ヒストリア)」の最終レポート

<<   作成日時 : 2015/05/10 00:01   >>

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3/24 からga029: 大航海時代の日本:日欧文化交流の歴史(ヒストリア)を受講していましたが、最終レポートの提出期限を過ぎましたので、備忘録としてUPしておきます。

まず言い訳になりますが、今回は散々な結果でした。ルーブリックが細かい事項まで指示してあって、その単語を使わないと得点無しにするようなものなので、良い点数は取れませんでした。

【最終レポート】-------------------------------------------------------------
アレッサンドロ・ヴァリニャーノがもたらした西欧文化を総括するとともに、 特に『活版印刷術の導入』と『その出版物』についての知識を整理し、その意義を論じなさい。

課題作成の際には次のポイントをふまえること。

(1) 日欧交渉が活発になった時代背景(一六世紀のヨーロッパと日本)を簡潔にまとめる
(2) アレッサンドロ・ヴァリニャーノとはどのような人物だったか
(3) 天正遣欧使節の企画はどのような意味で日欧交渉の発展に寄与したか
(4) 印刷術の導入はどのような意味で重要と考えられるか
(5) ヴァリニャーノの順応方針と「キリシタン版」の出版活動はどのように関連 しているか

※課題は日本語で提出すること。それ以外の言語で書かれたものは採点対象としない。
※課題の文字数は2000字程度とする。1500字以下および2200字以上の場合、項目1での加点無し。
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【私のレポート】-----------------------------------------------------------
 教皇分界線、トルデシリャス条約、サラゴサ条約、がポルトガルとスペインの勢力圏を決める。スペインは西へ行き、インカ帝国やアステカ帝国などを征服し、キリスト教化と領有が行われた。
 一方ポルトガルは、イスラム教徒、インド人、中国の商人など、力を持った人々と出あい、領有することが不可能なことを悟り、インドや東南アジアでは、四方4キロほどの港を取っていってそれを繋いでいく。これがポルトガルの 植民地経営の特徴である。これらをつないで、1500年ごろにユーラシア大陸を迂回するように海を渡って、ポルトガル人が東にやってきた。
当時の東シナの情勢は大きく変化していた。明は、海禁政策をとっていたが、倭寇の海賊行為に悩まされない公の貿易を何とか始めたいと思っていた。足利義満はそれに応えて、日明勘合貿易を盛んにする。
 1511年、マカオがポルトガルの一つの拠点になり、そこから 東シナ海に貿易船が往来する。日明勘合貿易と倭寇の隙間を縫って新たな貿易ルートを確保したのがポルトガル人だった。
 日本情報は、マルコ・ポーロが書いた『東方見聞録』のポルトガル語版によって知られており、これを読んだポルトガル人が日本を目指し、これらの日本情報とヤジロウに会ったフランシスコ・ザビエルは日本への布教を決心した。1550年ザビエルは、首都である都への旅を決行したが、天皇や将軍たちからは 全く相手にされなかった。
このザビエルに次いで、キリスト教布教に大きな影響を与えたのは、巡察師として 日本にやってくるアレッサンドロ・ヴァリニャーノであり、先達の事績をより豊かにするという役目を担っていた。実際に、セミナリヨ・コレジヨを作ったり、「日本年報」制度の確立などを行っている。彼はイタリア半島のキエティという町の貴族の家に生まれ、スペイン語とイタリア語両方話せるグローバルな人であった。若いころは色々な文化の刷新ムードに沸いたパドヴァ大学で学んで、ルネサンス運動・ウマニスタという考え方を吸収しており、イエズス会入会後は、ローマ学院で一流の学者たちから薫陶を受けている。つまり国際人で、知的にも恵まれた教育を受けている人物である。
彼は、異文化と遭遇したポルトガル人の発想の「順応」という考えを集約して「日本礼法指針」に書いている。例えば“人の迎え方”、“建物を建て方”、まで 細かに彼は指示しており、“カザには玄関茶の湯および座敷を持つように努めなければならない”と“茶室”の効用なども述べている。
 そのヴァリニャーノが天正遣欧使節を企画した。この使節がヴァティカンを見て、ヨーロッパのキリスト教会事情を知ったうえで、帰国後に活躍するだろうという対日本人向け効果と、日本人はキリスト教を受け入れる文化人で、彼の地でキリスト教の宣教が進んでいる状況を、日本人を示して見せたいという対ヨーロッパ向け効果を狙ったものであった。その裏には日本の宣教のためのスポンサー探しという目的があったことは否めない。
 実際に、日本からゴアを経由し、地中海を渡ってフィレンツェから ローマに入って、1585年3月23日のローマ教皇グレゴリウス13世と謁見した。このグレゴリウス13世が亡くなったときに彼の生涯をまとめた肖像図の真ん中に遣欧使節のことがあり、如何にそれが大きな事件であったかが分かる。さらに、「イエズス会史」の中には“日本にセミナリヨを建設しこれを維持するために4000スクド渡す”とあり、まさに ヴァリニャーノが思ったとおりの結果になった。使節はローマからフェラーラ、ヴェネチア、バルセロナ、リスボン、ゴアを伝って8年後日本に帰ってきた。
 そのときの組織の正使の副千々石ミゲルは後に棄教してしまうが、正使伊東マンシヨは司祭として長崎で亡くなり、副使中浦ジュリアンは江戸幕府の厳しい迫害に耐えながら最後は殉教している。
この組織員中に2人の日本人の印刷技術習得要員が居り、可動式活版印刷機とその技術を習得して日本に帰ってきたことは重要な点である。16世紀のヨーロッパでの印刷機の登場は、インフォメーションテクノロジーの大改革だった。宗教家たちは 自説を広めるために、印刷機を利用したが、ヴァリニャーノはそれを日本でやろうと、遣欧使節が出発する以前から考えていた。
 出版の意図は、“出版によって正典を固定”し固定することによる 権威の付与することであった。さらに、日本における印刷出版というのは、当時「仏教あるいは漢籍の古典だけ」という常識があり、これを逆手に取ると「印刷されたならば古典であるに違いない」と訴求することになる。つまりキリシタン版はいずれも印刷されているので“これは古典に違いない”と思わせる効果があった。ここにもヴァリニャーノの順応方針が関係していると考えられる。
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相互採点では 40 点満点中 22 点を頂ました。ルーブリックの規定からするとこの点になるのは妥当だと思います。
さて、理解度テストで 60 点だったので、トータル 82 点になりました。

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