東洋思想ノート_中国仏教_多様性の統一(9)

これは「東洋の合理思想」という本をテキストとして勉強したノートです

3.円即前後(系列的総合)の成立

 一と一が合して二となり、二と一が合して三となり、順に進んで十となるのは、一と十とが相即相入しているから

 一は十ではなく、十は一ではないが、しかも一でないことは十であることの必要条件であり、十でないことは一であることの必要条件であって、両者は相即する
 一は十の必要条件であって、一が無ければ十はない(一でないことは十であるための必要条件であるが、一があることは十となるための必要条件である)
 その一が十の可能性を含むのであり、それが相入ということである
 何故か? 孤立した一とか、孤立した二とか、乃至、孤立した十とかというものはないから 
 一と十とは先に述べたような二重の意味で互いに必要条件になりあっているので、それぞれ孤立することはない → 一方が他方の可能性を含む

 「一は自性の一にあらず、縁成するが故に。この故に一の中に十あるものは、これ縁成の一なり」

 自性の一 : 孤立した一のこと、 縁成する : 互いに必要条件となりあうこと


 一は孤立した自性の一ではなくて、二、三乃至十などと互いに必要条件になりあっている縁成の一である
 だから一が十の可能性を含むことができる
 同様に、二は十の可能性を含むと同時に、一の可能性を含み、十は一の可能性、二の可能性乃至九の可能性を含む

 ここで二つの可能性が考えられる
① 一が二、三乃至十の可能性を含む場合、
 この場合、二、三乃至十はまだ現実とはならない可能性
② 二が一の可能性を含み、乃至十が一、二などの可能性を含む場合、
 この場合、一、二などはすでに現実となり終って十の要素となっている可能性
 (十を分解すれば一が出てくることもありうる)

①の場合(一が十を含むこと)=向上
②の場合(十が一を含むこと)=向下

①と②は不可分のもの

 一が向上して十になる可能性を含むのは、一加える一が二となり、二加える一が三となり、乃至十となるという加法演算の可能性を持つこと
 しかし、加法で一をただ並べただけでは、多くの一があるにすぎず、決して二にも三にもならない

 「もし一が十に即さずんば、多くの一もまた十を成さず。何故とならば一、一は皆十にあらざるが故なり」

 だから、一に一を加えていって順に二となり三となり十となりうるためには、「一が十に即する」ことが必要
 
 即する : 一方の否定が他方の肯定の必要条件となること

 「一が十に即する」 : 「一が現実の一でなくなることが、十が現実の十となるための必要条件である」

 一が現実の一でなくなって、十の要素となって十に即するとき、十が現実となる → 向下

 加法の計算が成立ためには、一に順に一を加えて並べていくという向上の操作と同時に、その並べられた多くの一を自己の要素として総括する向下の操作とが同時に作用するのでなくてはならない

相即相入01.jpg

上図のように、向上の系列と向下の総合とが不可分に結びついて、系列的総合が成立
これを「円即前後」という  「円」とは総合 「前後」とは系列
また、これを「一中多・多中一」という
 「一中多」 : 前後の系列をなして十となりうる向上の一
 「多中一」 : 十の要素として十に総合される一

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