TOSHIさんのブログを読んで感じたこと

「学問するという贅沢」 http://maldoror-ducasse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_1ce3.html という記事で感じたことを書いてみます。
本来ならば「TOSHIの宇宙」にコメントすべきなのですが、これはTOSHIさんのお考えなので、これに対して、どうのこうのというべきことはなく、自分はどうなんだ?という観点で考えてみました。
結果、TOSHIさんのご意見とは大分異なる次元の話になってしまいました。

TOSHIさんが仰られるように「日々の生活の糧を得るのにも困窮している人民達」にとっては、(本職の学者・研究者ならいざしらず)生活の足しにもならない学問を趣味にしていること自体に厭らしさを感じてしまうかも知れませんね。
人間には何らかの慰安が必要なので、そのために賭け事などに走るような人も居ます。
それはときとして慰安にならず、別のストレスを抱え込むような事態も引き起こすこともあることはご存知の通りです。
こういう場合、私は哀れを感じますが、鼻持ちなら無いとは感じません。
賭け事などの趣味は、本能の快楽原則に比較的近いものと考えられるためなのかも知れませんね。

これに対して、芸術や学問などの所謂「高尚な」趣味は本能の快楽原則とは遠いものであるため「鼻持ちなら無い」ものを感じてしまうのでしょうか。
多分それだけではないのでしょう。
ひっそりやっているのなら誰にも影響を与えず、他人から「鼻持ちなら無い」と感じられることも無いでしょうから。。
例えば薀蓄癖などにより、どこかに「高尚な趣味を持ってるんだぞう」という態度が出てしまうからでしょうね。

さて、TOSHIさんも含めてご教示頂いている方々に「鼻持ちなら無い」感じを抱いたことは無いですね。
威張った感じが無いからだと思いますよ。
自分を振り返って見ると、威張った感じがあって、ちょっと引きますね。。
(人間が出来てないからね。。反省。。)

別の観点からいうと学問をすることが慰安になるのでしょうか?
「分からん」というストレスは存在しますが、分かったときの「Aha!体験」というのあるので、その部分では慰安になるのかも知れません。
しかし、「Aha!体験の快感」>「分からんというストレス」でないと慰安が成立するのか?ということになります。
私の場合、実際問題として「分からん」ことが多すぎるので、分かる分野しかやってません。
そうすると、「Aha!体験の快感」自体の量も少ないので、本当に慰安になっているのか?というのは疑問です。

では、何故物理なんかを勉強して、それをブログなんかにUPしているんでしょうね?
やはり薀蓄を語りたいという欲求を満足させているだけでしょうか?
(多分、それも無いとは言えないでしょうね。。)
基本的に、学習した分の備忘録としてこのブログを使っているので、間違った内容を記述していることも多いし、あまり他の人の参考になるようなことはないと思っています。
その点で、コメントを下さる方や、親切にもご教示いただける方には大変感謝しております。

さて、このブログでは「今年のノーベル物理学賞は誰?」なんていう科学Newsネタは殆どありません。
また、「観測問題」ような根幹に関わるような記事も書いてませんね。
ループ、ひも、ブレーンなんて話題もないです。
基本的に理解できないことは書かないし、宇宙の根本原理なんてのも触れてないです。
これは私が本当の意味の科学ファンではないことを示していますね。

それを考えると、何故物理なんかを勉強しているのか?という質問に対しては、あまり良い答えがないのですが、基本的にクイズを解くような感覚で問題をシコシコやっているというのが正直なところでしょう。

やっぱり、鼻持ちなら無いな~。。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

明男
2007年11月09日 03:08
こんばんは。
TOSHIさんから錚々たる面子に数えられ、恥ずかしさの余り失神しかけた明男です。
しかし、EMANさんのところを覗いたら、ただの酔っぱらいだったことが分かり(勿論冗談です)、少し安心。
ああいうところがTOSHIさんらしいなあ、と。面白いです。

ところで、なぜ物理を勉強するのか、という問いは、私の中では明確です。それは物理があらゆる学問の中で最も宇宙の(こ世かな)真理を理解するのに適した学問であると信じているからです。それが数学でも考古学でも、文学でもなく、物理であるのは「究極の理論」を目指しているからです。私にとって究極であるとは万能とほぼ同義語なので、言い換えれば「神」になりたいのかも知れません。それなら、何処かの宗教へ入れば生きたまま成れそうな気もしますが(笑)。
神は兎も角、真理に一歩でも近づくこと、それを生きる目標とすることを運命づけられて生まれてきた、つまり天命を受けていると信じていたからです。
どうです、この「鼻持ちならなさ」は。T_NAKAさんの比じゃないですよね。
TOSHI
2007年11月09日 06:51
 こんにちは。。。比喩ではなく現実に不潔なので臭い垢デミックなTOSHIです。

 一応,物理や数学をなぜ趣味としているか?という問いに対しては,ほとんどのそうした趣味を持つ方と同じかと思っていますが,もちろんそれが美しいからに他ならないと自分では思っています。

               では。。。。TOSHI

 

 
明男
2007年11月09日 08:24
>TOSHIさん
どうもすみません。勝手にうわさ話をしてました。
T_NAKAさんの記事の内容が内容ですから、当然チェックされますよね。
なんて迂闊なんでしょう。でも親しみを込めて書き込みましたので、お許しを(後付けはダメ?)

美しさ・・・そうですね。真・美・善が同じ事なのか、何かに共通の属性なのかは分かりませんが、求める価値の有るものだと思います。
それこそ名誉や地位など世俗の利益より、ずっと。
T_NAKA
2007年11月09日 13:47
「美しいから」というのは確かにそうだと思います。
「そうなっていたのか。。」という感動は、空や海など風景を見て感動するのと同じ感覚ですね。
しかし、これを他人に説明するのが難しい。。下手なことを言うと、キザだと思われまよね。
まあ何でも同好の士にしか分からない感覚はあるので、仕方ないですが。。

この記事へのトラックバック